その2

ブリュセレンシスカフェ開店とデリリウムカフェ日本上陸6周年にあたり、うちのお店がどのようにして出来上がってきたか

詳しく知っているスタッフはいないと思ったのでちょっと書き留めてみる事にしました。

いまでこそビール屋としてうちの会社、お店で働きたいと連絡をいただけるようになって来ましたが、当時はそんなどころか生きるか死ぬかをさまよっていて、これまでうちで働いてくれたみんなのおかげでこういう現在の形になっているという事も知ってほしいと思ってます。

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2004年の5月1日、六本木にベル・オーブ六本木を開店した。ベルギービールが好きで好きで始めた事業だ。タリーズで松田公太さんとじかに仕事をさせてもらって思っていた事があった。

1.付加価値商品で商売する。

2. 2位、3位に入れる業界で勝負する

3. 好きな事で勝負する

当時、ハンバーガーで半額マックで60円なのにスペシャルティーコーヒーは400円。ビールも発泡酒が登場して人気を得始めた時。スペシャルティービールであるベルギービールの市場は拡大すると確信していた。

最初にやると相談したらみんなに原価が高くて成功しないと言われたが開店してみて確かにとそうだと思った。商売としては難しいと。自分達が生きていくので精一杯だったのだ。店を増やす余裕もお金もなかった。

なんとか背伸びをして西麻布と広尾に店を出したがこれが大失敗。六本木ヒルズの脇、住所は西麻布の店で空いた時間に近くの道路でカップラーメンをすすりながら俺は何をしてるんだろう.. と隣の六本木ヒルズを毎日眺めていた。その時に入ってきてくれたスタッフがいま運営全般を取り仕切っている古城戸といまも料理を作ってくれている相原(アイミー)だった。二人ともアルバイトスタッフでの入社だった。一つのお店は失ったが大事な二人と会えたのは今でも感謝だ。 

六本木を任せていたスタッフも辞める事になって店を2店舗立て続けに閉店する事に決めた。六本木一店舗だけになんとか戻して続けていくが、もしここで結果がでなければ事業をたたもうと思ったけどその頃からの山本さんや吉田さんのような常連さんがお店に来るたびこの店を閉めてはいけないと思った。店をたたんで六本木のお店に戻って一ヶ月でメニューを変えてないのに原価も38%から30%に下がった。自分がいかに管理出来ていないのか自分の実力が足りないか痛感したのだ。そんな中寡黙な古城戸はアルバイトとしてついて来てくれた。仕事が終わるといつも二人で飲みに行っていた。といっても明らかに社員になろうとまではしていなかった。

ベルギービールの業界で一番になると宣言していたのに、ある日古城戸は聞いてきた。「うちはいま何番目なんですか?」返す言葉がなかった。だって一店舗しかなかったから。順位にならない。。早く会社を成長させてビール好きを増やしていくしかないとこのままではいけないと焦った。

それからまもなくだった気がする。六本木でお店を閉めた後、いつも古城戸を連れて近くの鉄板焼き屋に行っていた。古城戸が○○○という大きな勢いのある飲食チェーンに就職しようと思っています。と言い出した。

そんな所行っても、、と否定するのが精一杯な中、古城戸が僕が社員として入れる場所はあるんでしょうか?と聞いてきた。
もう後には引けない。これからお店を作るから俺についてこい。と伝えた。古城戸がそのときどんな対応をしたのかは正直必死すぎてあまり覚えていない。

経営の話だが、お店を出店した時にいままで周りに言われていた通りビールは原価が高かった。
飲食店のプロ達はカクテルを売って原価を下げればと色々言われたがなんかしっくりこなかった。やっぱりビールで勝負したい。という気持ちが強かった。

これが最後の勝負だと思ってビールの直輸入を試みた。直接買い付ける事でお客さんにビールを他より安く、そして自分が最高だと思えるビールを提供したいと考えた。

そのために行ったベルギーではお店のオープン前に行った時よりも
ビールをただ買いにきた若者にさらに優しく接してくれた。情熱は言葉を超える事をこの時自信を持って知った気がする。またここに戻ってくるためにビールを伝えようと以前にも増してビールに打ち込もうと思った。やはり火事場のなんとか力は追いつめられた時に出て、六本木のお店の売上は任せていた時の160万程から一年もたたないうちに倍に到達した。そして400万円も超えるまでになった。 

そしてベル・オーブ豊洲を出店した。それに合わせるように古城戸と岡山も入社してくれた。

最初はショッピングセンターでお店は出来るのか心配したけど、スタッフみんなが豊洲のお客さんと仲良くなって、なによりも深澤という腕のいいシェフがお店を盛りたててくれた。豊洲の隣のマンションで住民のみなさんとパーティーをやったりクルージングをやったり。いまやっているイベントのベースもここから来ているのかもしれない。

店舗を増やすと同時に最初に半年に一回だったビールを輸入するコンテナをもっと輸入する事が可能になった。新しいビールを輸入しようとベルギーにも行く回数が増えた。最初はブリュッセルのデリリウムカフェでTim Webb(ティム ウェブ)のベルギービールの評価分を読みながらとにかくビールを飲んで美味しいビールを見つけると醸造所につたないあまり通じない英語で電話した。後日談だが、Tim Webbともその後会う事が増えたけども彼は僕が持っている彼の本を見てこんなに使い古されたのは初めてだよ。と驚いていた。

今回加筆部分はこちらから。

輸入するにつれて、日本からやたらベルギービールが好きでなんだけど以外とビールをきちんと買ってくれる変わったやつがいるという僕の名前がベルギーの小規模、中規模醸造所のみんなに知られるようになり、連絡すると名前を知ってくれるありがたい人も現れるようになったし、輸入する醸造所も芋づる式に紹介してくれるようになって来た。信頼がほんとに大事だった。

このような小規模醸造所を紹介する事もいつしか自分の使命となっていて、ただ一回輸入してめずらしがられて販売する事は良くない。人としても素敵な醸造家と一緒に事業を大きくしていきたいと考えるようになった。

まだどんどん醸造所を紹介してもらえる前にはベルギーのデリリウムカフェに通って店員と仲良くなって美味しいビールを探しては醸造所に電話して醸造所を訪れていた。カウンターに世界中のビールファンが居て仲良くなったりした。それが楽しくて仕方なかった。そうしているうちに自分もデリリウムカフェを日本で展開してみたいと考えるようになったのだ。

ただし、この出店は多額の投資を必要とし、かなり危険なかけでもあった。この勝負が終わればもちろんこの事業の終わりを意味していたのだ。

豊洲にベル・オーブを出店したのが2006年10月。その前の2006年の9月、転機となる日が訪れた。いまでもあの日はビールの神が降臨した日だと思っている。

デリリウムカフェを展開したいと考えていたのだが誰に連絡すれば良いかが何も分からなかった。デリリウム・トレメンスを作るヒューグ醸造所自体がデリリウムカフェを運営しているのか、違う会社が経営しているのか。醸造所にメールを送ってみたが返事もない。9月のブリュッセルのビアウィーケンドに行けば誰かに会えるかもしれないと思いベルギーへ渡った。

ブリュッセルのビアウィーケンドは今ならわかるのだが金曜から日曜まで開催されるのだが、醸造家達はベルギービール騎士団の集まりもあるため金曜にみな集まる。それ以外はブースではアルバイトスタッフ等がビールをサーブしている事が多い。それを知らなかったため土曜に何度もブースを訪れて「日本でデリリウムカフェを展開したい」と嘆願したがビールを注ぐのに忙しい彼らはは26歳の若造を相手にしてくれなかった。(彼らも若かったのだが、、) 

そんな最後の日曜。客が少ないうちにブースを回ろうとしていた時、いつもビールの本で見ていたあの人がいた。ヒューガルデンを生み出したピエール・セリスさんだ。

僕が一番最初に輸入したいと思ったビールはセリス・ホワイトだった。それは飲んだ事があったわけでもなく、ベルギービールに関する本を読みあさるたびにヒューガルデンのピエール・セリス氏の物語が書かれていた。

そして彼の一生は波瀾万丈だが挑戦の連続だった。それにも憧れていたのだろう。そのビールは日本にはなくて飲む事は出来なかったのだがいつか輸入してみたいと考えたのだ。そして実際に一番最初に輸入したビールもセリス・ホワイトとなった。

そのセリスさんと初めて直接話しをする事が出来て色々と自分の思いの丈を打ち明けた。自分がなぜベルギービールの事業を始めたのか、なぜセリス・ホワイトを輸入し始めたのか。セリスさんはにっこりと笑って君のような青年に私のビールを輸出出来て嬉しいよ。と答えてくれた。自分とスタッフの努力が報われた瞬間でもあった。

最高の一日の始まりだったのだが、相変わらずビアフェスの最終日デリリウムカフェについての情報や交渉については何も進まなかった。ビアフェス中は一般のビールファンだらけでなかなかゆっくり話も出来なかった。