その8


この日は、一生忘れられない出来事がいくつかあった。

朝4時までビールを飲み続けた私は、朝9時半頃に目が覚めて、2時間程、ブログをアップした。このまま、ビアウィーケンドで飲むとほんとに体によくないかなと思い、先に一人で昼食をとろうと店に入り、メニューを注文した。
その瞬間、携帯電話がなる。

S君からだ。興奮した口調で

「菅原さん!!!ピエール・セリスさんが来てるよ」

ピエール・セリスさんとは「ヒューガルデン・ホワイト」をこの世に生み出したホワイトビールのゴッドファーザーである。※この本文の最後にセリスさんについての文を載せておきます。

あまりにびっくりして、注文をそのままにしてもらって店を飛び出して一目散に走って会場に向かう。

S君を見つけ、みんなでその場所に向かう。

「いた!!」

どうやらとある醸造所の方達と話しこんでいる。三分程してその話が終わり、歩き出した。

すぐに僕は英語で話しかけた。

「ピエール・セリスさんですか?」

「はい。」

「実は私はあなたの作りだした、セリス・ホワイト、セリス・ペールボック、セント・ベルナルデュス ウィット そしてグロッテンビア これらの樽生も含めて日本で輸入している者です。少しお時間をいただけますか?」

「もちろん。」といって彼は5メートル程離れた所にいる70代くらいの女性へ何か話しかけた。
「私の妻だよ」と私に笑いかける。そしてセリスさんの奥さんは何かを取り出して彼に渡した。

名刺だ。。 それを私達に渡してくれた。
肩書きは「Brewer 醸造家」と書いてある。

急いで私も名刺を取り出し、交換した。
「セリス・ホワイトが日本に輸出されているとはうれしいね。」

10分弱だろうか、正直、必死すぎて、何分だったのかまったく覚えていない。
様々な話をした。
彼のビールを醸造している、ヴァン・スティーンベルグ醸造所、セント・ベルナルデュス醸造所と付き合いのある事も話したし、
ちょっとした話もした。
「グロッテンビアより○○の方のアルコール度数を高くしたのはなんでですか?」
「単にうまいからさ」と微笑んで答えてくれる。
「君もベルギービールが大好きなんだね。」と言ってくれた。

もちろん仕事上の話もした。
最後にこう言ってくれた。
「名刺のこの住所になにかあったら連絡を下さい。」

僕は最後に彼にこう言った。
「次にあなたに会う時は醸造所で会いたいです。」

笑顔で別れた。
こんなに緊張、興奮したのは
体操の試合以来じゃないだろうか、興奮しているけどなんか冷静みたいな、ほんとスポーツしてる時みたいな。

話おわった瞬間、体から力が抜けた。
いつも店のカウンターでセリスさんに会いたい、会いたい、聞いていたお客様もいらっしゃると思う。この旅にでる前もなんの根拠もなく「セリスさんに会おうと思ってる」と偉そうな口をたたいていたが、、。まさかほんとに会えるとは。会いたい会いたい言っててほんとによかった。

最高の一日がスタートした。
この日はこれだけではなかったのである。(その2へ)

↓↓※補足 ピエール・セリス氏について↓↓

ホワイトビールは小麦と大麦麦芽を利用するビールをいいます。
本当に白いわけではないですが、小麦に含まれるタンパク質によって白濁するためにホワイトと言われるようになりました。

小麦を利用するビールとしては他にもヴァイツェンビールがありますが、こちらは小麦麦芽を利用していることと、ホワイトビールがオレンジピールやコリアンダーを利用するのに比べ、ヴァイツェンはドイツの「ビール純粋令」と呼ばれる法律により、これらの副原料は利用されていません。

ベルギービールの中でも世界的にホワイトビールは「ヒューガルデン」というブランドにより知られるようになります。

そのヒューガルデンを生み出した「ピエール・セリス氏」。彼抜きにヒューガルデンを語ることはできません。説明して行きましょう。

ベルギーのルーヴァン(世界一のビール会社インベブの本拠地)近くにヒューガルデン村はあります。その昔、この地方で栽培される小麦を利用したビールが盛んにこの地方で作られていたのです。当時は小麦以外の麦も様々に使われていたようです。
この長年にわたる醸造の歴史によりホワイトビールに適した酵母が出来上がっていったと言われています。
ヒューガルデン村の文献には、既に1318年にはビールが醸造されていたとあり、実際ヒューガルデンのビールのラベルにもsince1445と書かれている事からもホワイトビールの歴史がわかります。

一時はこの村周辺だけで50以上の醸造所がホワイトビールを作っていたものの、世界中がピルスナータイプのビールが主流になるなか、競争に勝てず次々と醸造所がなくなっていきます。
1957年 ヒューガルデン村最後のホワイトビール醸造所であるトムシン醸造所も閉鎖してしまいます。

トムシン醸造所の隣に住んでいた牛乳屋のピエール・セリスは
(偶然、白つながり、、とMJの本には書いてありますが、(笑))
村からホワイトビールがなくなり、それから何年か立った頃でも村の会合などでホワイトビールを懐かしむ声を聞き、ふと考えました。
「自分がホワイトビールを作り直したら、なつかしがっている人達相手に売れるかもしれない。。」
これが彼のアイデアでもありました。そして
廃業したレモネード工場から設備一式を買いとり、ホワイトビール造りを始めたのです。

ヒューガルデン村で復活したホワイトビールという事で村の名前をビールの銘柄としました。醸造所の名前は当時はデ・クライス(修道院)といいました。
昔のリバイバルで売り出そうと考えたピエールセリス氏の予想ははずれます、、といってもうれしい誤算。
昔のビールのリバイバルのつもりが

実際には若者に爆発的な人気をはくしはじめたのです。ピルスナーになれた若者にとってはそのフレッシュな飲み口、フルーティーな味が逆に新鮮に感じます。マイケルジャクソン氏の本によれば、酵母(澱)が健康的なイメージとして若者に人気が出たと書かれています。
口コミでホワイトビールの噂は一気に広まり、ヨーロッパ中からヒューガルデンを求めて醸造所にビールを買いに来るようになるのです。
1967年に750hlだった生産量は1985年には75000hlとなっていました。
ところがその1985年 ヒューガルデン醸造所(当時はデ・クライス醸造所)は火事で一部が焼失してしまいます。セリス氏一人の財力では再興することができないほどになってしまったため、現在世界一のビール会社インベウ゛社(前インターブリュー)の傘下に入ることとなってしまったのです。
これによりセリス氏はヒューガルデンの味わいは今日に引き継がれなくなったと語っています。

しかし、セリス氏のビール造りへの情熱が失われる事はありませんでした。
ヒューガルデン醸造所の再建に力を尽くしたセリス氏には次の夢が生まれます。
それは当時、マイクロブルワリー熱が高まって来ていたアメリカで自分のホワイトビールをまた広めたいという夢でした。
1992年にアメリカに渡り、テキサスのオースチンに自らの名を関したブルワリー「セリス・ブルワリー」を設立し、セリス・ホワイトというホワイトビールの醸造に再び挑戦します。
その他、セリス・グランクリュやセリス・ペールボック等、またフルーツビールまで様々なビールを醸造します。
軌道に乗ったかのように見えた、セリスブルワリーでしたが、
またもや?1995年にミラー社に買収されてしまいました。いまではミラー社がセリス・ブルワリーを閉鎖。

その後、セリス氏は
ヨーロッパ向けにデ・スメット醸造所(現アフリゲム醸造所)にて
セリス・ホワイトと新作グロッテンビアのライセンス生産を始めますが、
デ・スメット醸造所がオランダ・ハイネケンに買収されてしまい、
醸造をヴァン・スティーンベルグ醸造所とセント・ベルナルデュス醸造所に
移して現在にいたっています。

セリス・ホワイトはベル・オーブの直輸入ビールで
樽生もベル・オーブで飲めます。

昨年にはヒューガルデン醸造所も閉鎖となってしまいました。

続き

(※1月にこの二つの醸造所で聞いてきましたが、
今でも月に1、2回はヒューガルデン村から自ら運転して車でやってくるそうです。)

そうして、ヒューガルデン・ホワイト セリス・ホワイトに次いでセリス氏によって生み出されたホワイトビール
セント・ベルナルデュス ウィットビア(ウィットビアはフランダース地方でのホワイトビールの総称 ワロン地方では、ブランシュ)

このホワイトビールはベルギーのホワイトビールの中でも飲んだ後に広がる独特な風味(セント ベルナルデュス醸造所の特別な酵母によるものでしょう。)が強烈な印象を与えます。